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和光市新倉の歴史について
宮瀧 交二
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PROFILE
さいたま文学館学芸員・東京女子大学非常勤講師
宮瀧 交二 |
「彩の国さいたま」といってひさしいが、‘彩の国’というのは、全然地域に定着していない。それは、歴史や文化的なもので決めていないからだと思います。地域の伝統、文化に根ざしていないと定着していかない。そこに住む人間がその地域の歴史を知ってこそ、文化も根付いていくと思います。
そこで、今日は、実はなかなか知られていない和光市の歴史についてご説明したいと思います。
「続日本記」によると、天平5年(733年)、『武蔵国埼玉郡の新羅人徳師ら男女五十三人、請によりて金の性となす。』という記録が残っています。この頃から和光市には人が住んでいたことになります。
天平宝字2年(758年)、日本に帰化したのは、『新羅僧州二人・尼二人・男十九人・女甘一人を武蔵国の閑地に移す』 との記録があります。是に於いて、新羅郡を置く閑地とは、空き地を意味します。武蔵野とか武蔵野林とかいうと、今の武蔵野市や吉祥寺方面を想像しますが、本来は川越〜池袋、所沢・狭山のあたりのことをさしており、入間郡といわれていた辺りが武蔵野というエリアです。さらに林は江戸時代に人工的に作られた雑木林であり、わりと新しい話になります。その前、原始武蔵野の風景は林ではなく、すすきの草原つまり閑地ということになります。
新羅郡設置の歴史的背景には、その当時の政権藤原仲麻呂の政策として、仲麻呂の右腕であった武蔵国の国司・・・高麗朝臣福信のいるところに、渡来人や新羅人を集めたものと、新羅人による集住願望で「閑地」の開発の技術者として渡来人が集まっていたとも言われています。
新羅郡はいつからか新座郡へ漢字が変わったが、呼び方は同じで「しらぎぐん」でした。理由は不明です。この時代は音読みが大切で漢字は当て字です。志木のゆらいは「和名類聚抄」からつけたとされていますが「志木」郷は「志楽」郷が正解であり、志木の「木」は間違いです。「志楽」郷は「新羅」を指しています。新座郡には「志木郷」と「余戸郷」の2郷が存在しました。古代の地方行政を、国 ― 郡 ― 里(郷)に照らせば、武蔵国―新座郡―志木郷と余戸郷になります。歴史が物語るように和光市、朝霞市、志木市、新座市には古代の遺跡が分布しています。古くから人が住んでいたという何よりの証拠です。
和光市の花ノ木遺跡からは「ひのし」が出土しています。「ひのし」とは今でいうアイロンのようなもので、金ゴテのような形をしています。その時代の服は麻が主流でアイロンをかける必要などありませんでした。アイロンを必要とする服は絹です。この時代に絹を着ていたひとは、役人か渡来人だけです。よって渡来人、もしくは、位の高い役人が住んでいたことになります。
古代の人はだいたい崖のふちに住んでいました。それは安全で水が近いことが理由です。「ハートスクエア和光」のマンションの周りにも湧水がありますよね。古くから人は水の出るところで生活しています。
伝説では「午王山遺跡」のある午王山に、新羅の王様が住んでいたといわれています。新羅や百済の国が滅び日本に渡来してきたことは事実であり、可能性のない話ではないと思われます。伝説と昔話は似てはいますが違うものです。伝説は歴史的な証拠があり、昔話には証拠がありません。そこが違うところです。
新羅郡の役所、つまり街の中心がどこにあったかということですが、遺跡から推測すると和光の新倉地域が有力であると思われます。この地図は明治10年ぐらいにつくられた陸軍のものですが、新座郡で地名と家があるのは新倉と白子だけです。昔の地図を見るとその場所が、どういう所だったかがよく分かります。皆さんも昔の地図を見ると良いですよ。
「文徳実録」では、嘉祥3年(850年)に新羅の琴の名人「沙良真熊」という人が武蔵国豊島郡広岡郷にいたという記録があります。この時代の豊島郡は大変大きく、広岡郷は新羅郡と重なっていました。もしかしたら、沙良真熊は和光市のあたりに住んでいたのかもしれません。

Q.どうして新倉にお寺が多いのでしょうか?
新倉にお寺が多いというのはその時代に人が多く住んでいたのだということを意味しています。時代的には鎌倉時代にさかのぼります。お寺の名前を見ても渡来人が建てたものもいくつかあると思われます。高台で水が湧いている、湧水公園があることからも分かるように、新倉は古くから人が住んでいたんですよね。因みに白子は川越街道が出来てから住みはじめた場所です。
Q.それでは、新倉は昔、高級住宅地だったってことですか?
そうだと思います。―新倉の小字は本当に多いですよ。これを見ると、どう考えても暮らしの中心は新倉であったと言えます。荒川は、もともと 「荒れる川」 という意味です。現在の荒川は整備されきっていますので、あれは本来の荒川ではないです。昔は本当にしょっちゅう決壊していたみたいです。でも「エジプトはナイルのたまもの」とあるように荒川も荒れたからこそ水田も発展し、人が住んだという事実もあります。
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