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住まいの勉強会

練馬区の歴史と文化−高野台地区を中心として

 宮瀧 交二


PROFILE


さいたま文学館学芸員・東京女子大学非常勤講師

宮瀧 交二

1.練馬区の歩み −「武蔵野とは」−

 練馬区周辺に人が住み始めたのは3〜5万年まえになります。後期石器時代の頃です。練馬区は23区中3番目に大きい区です。西から東に白子川、南のほうに石神井川、間の武蔵野台地は関東ローム層で安定した地盤でした。昔は白子川と石神井川の近くに人は住んでいて、その間の台地には人が住んでいなかったようです。
 武蔵野に関する記述は、古くは『万葉集』や『伊勢物語』などの作品にも出てきており、早くから中央に知られていたようです。また、『太平記』などの作品でも主要な舞台となっています。なお、こうした古典文学作品から得られる武蔵野のイメージは、『新古今集』所載の「行く末は空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月影」の歌に代表されるような広大な原野でした。
 今の練馬区の周辺は、奈良時代に、〜むさしの国豊島群〜と呼ばれていたようで、江戸時代までそれが続きました。また、ねりまの語源は、むさしの国のりはま(馬を乗り換える)からときている考えられています。(他にも赤土を練り混ぜる場所、根元の沼:ねぬま等が語源と考えられる。)

2.「高野台」の旧地形

 江戸時代は幕府の直轄領で藩はありませんでした。幕府直轄〜鷹狩等をやっていたのではないかと考えられています。谷原村の家屋数は村で110件くらいしかありませんでした。武蔵野は原野(今ある林は人工的なもの)で一面の草原でした。明治13年の陸軍地図中で、大通りのクロスしているところが、今の谷原の交差点です。

3.「高野台」の由来と長命寺(『江戸名所図会』)

 高野台は"こうやだい”?と呼ばれていたのかもしれません。練馬高野台駅のほど近くに、長命寺(真言宗)というお寺があります。このお寺は、紀伊国高野山で修行したお坊さんが、この地に高野山を模してつくったので、東の高野山といわれるようになりました。今、当時の模様を残すのは、御廟橋から石造物の並ぶ参道と、奥の院にかけての一帯で、東京都の指定史跡となっています。名前の由来には欠かさないお寺です。江戸時代もハイキングなどの観光地で、のどかないい場所のようでした。


角川文庫本 江戸名所図会 1967年〜  練馬長命寺 新高野または東高野山


4.俳人・高浜虚子らが訪れた東高野山(昭和10年12月1日の武蔵野探勝会)

 高浜虚子一門が昭和10年12月1日、東高野山(長命寺)に吟行に訪れ、その様子を『武蔵野探勝中』 という本につづってあります。長命寺に行く途中の風景を、虚子は「大根を干して片づく百姓家」と詠んでいます。




5. 練馬大根について

 練馬高野台駅前には練馬大根碑がある。大根の練馬か、練馬の大根かと言われるほどに、名をはせた練馬大根は、元禄の江戸時代から栽培されるようになりました。人口百万を超える江戸の需要にこたえる野菜の供給地として、練馬大根の栽培も発展していきました。
 明治の中頃から東京の市街地が拡大していくのに伴い、練馬大根の生産も一層増大していきました。練馬大根は、たくあん漬けとして製品にされ出荷、あるいは、干し大根としても販売されました。
 昭和の初めのころまで活発に栽培され続けましたが、大干ばつや病気の大発生等で大きな痛手を受け、また、食生活の洋風化・急激な都市化による農地の減少などにより、昭和30年頃から栽培が衰退し、練馬大根が出回ることがなくなりました。

Q.街路樹なんかにイチョウの木が多いような気がするのですが、なにかあるのですか?

 お寺の境内などにはイチョウがありますよね。鎌倉時代に中国から輸入された木なのですが、お寺を中心に各地に広まりました。最初はお寺にしかなかった。

Q.東京都のマークがイチョウなのは?

 イチョウの木が江戸では一番。江戸城周辺はイチョウが多かったんですよ。


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