みなさま、こんにちは。
建築技術部のニューフェイス、加藤佑規くんに(みなさまにこのブログでご紹介させていただく前提で)インタビューしました。
東日本大震災の被災地、福島県浜通り地方の出身。幼かったころの記憶なども含め、お話を聞いてみました。
こちらは後編で、前編「福島への想い」
https://www.livlan.com/blog/2022/05/29/5075/
からの続きとなります。
お付き合いの程、どうぞよろしくお願いいたします。
(総務部 太田)

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地震発生の翌朝、防災無線での避難指示を受け、家族7人は2台の自家用車で避難所へと向かった。
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福島への想い

太田:避難所の体育館に無事到着されたときの様子は、いかがでしたか。
加藤:人はあまり多くはなかったという印象があります。実は、僕たちが暮らしていた双葉町の避難所は家から遠かったんです。そこで、隣町の大熊町の避難所だった体育館へ向かったという記憶があります。
太田:体育館には、どれくらいの期間、避難していたのですか。
加藤:そこに2泊しました。祖父や父は、一度家に戻り、ご飯や毛布を運んできてくれました。
太田:そうでしたか。大変な状況になりましたね。
加藤:3月11日は自宅。3月12日~13日は体育館泊。そして14日の夜、22時くらいだったと思います。たまたま連絡が取れ、親戚が住んでいた南相馬へ移動しました。
太田:じいじ、ばあばと別れて、移動することになったのですね。お互いに寂しさと心配もあったでしょうね。
加藤:そうですね。時計の針が0時を回ったころだったと思いますが南相馬に着き、お風呂に入ることができました。
お風呂から出て、なんとか一段落着いたと思っていた夜中の3時頃、原発で働いている親戚の人から電話がかかってきました。「ヤバい、爆発するかも」という緊迫していることが伺える連絡でした。その時、原発からは30kmほど離れていましたが、夜中、親戚一同で、すぐに山形県の鶴岡市に避難しました。
太田:ようやく一段落かと思ったら、急転直下、山形県の鶴岡市への避難ですか。それはまた大変でしたね。やはり、ただ事ではなかったわけですね。
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爆発するかもしれないという言葉が、翌朝、現実のものとなった。
3.15 福島第一原発水素爆発の発生。ニュースで白煙をあげる原発の映像を見て、いったいどうなってしまうのかと、日本中、いや世界中が思った瞬間だった。
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加藤:山形に着き、3月15日はホテルで1泊しました。しかし、ホテル泊を続けるわけにはいかないと、すぐに判断しました。
太田:親戚一同での避難、移動だったのですね。それはまた大きな問題が起きましたね。どうされたのですか。
加藤:鶴岡市内にある公民館で避難民を受け入れていることがわかり、3月16日に移動しました。
太田:公民館での避難所生活が始まったわけですね。そこには、どれくらいの期間滞在されたのですか。どんな気持ちでしたか。
加藤:2週間滞在しました。公民館ですが、体育館などもあり、中1の私は、サッカーやバドミントンをやったりして、子どもたちは楽しんでいました。その中で、学校は4月からどうするかという問題があり、鶴岡市の学校へ転入しようということに決めて、中2から転入しました。
太田:子どもたちは、それぞれ市内の学校に転校したということですね。
加藤:はい、そうです。地震、原発事故によって、避難せざるを得ないという状況でしたが、僕は子どもだったので、引っ越しして、転校したということに、さほど特別なこととは感じませんでした。決して普通ではないのですが。
太田:その流れの中にあって、順応できて良かったですね。辛くて仕方がないと思うことより、日々の変化があまりにも大きかったし、幸い家族みんなが一緒だったから、子どもながらに苦労しつつも、そういった不安が少し緩和されたのでしょうか。
加藤:そう思います。東北の海沿いで、直接津波などに被災された方々のことを思えば、僕たちは生きていけただけ幸せだったと思います。
太田:そう思うしかなかったのかな。人間って大地震や大津波のような自然の驚異には敵いませんが、精神力が高ければ強いですね。
加藤:本当に僕たちは元気でしたし、なんとかなっていましたので、大丈夫でした。
太田:そして、今があるわけですもんね。
加藤:そうですね。

太田:2週間の公民館での避難生活の後、鶴岡市内の学校に転入することになり、住居はどのようになったのですか。仮設住宅などに移られて、避難生活が始まったのですか。
加藤:3月末に、借り上げ住宅に移りました。
太田:そこで卒業まで生活することになったのですね。その間、双葉町には一度も帰れなかったということですよね。
加藤:そうですね、中学2年間、高校3年間の5年間、僕は帰っていないです。双葉町には立ち入りできない状況でした。
太田:今でも家はそのままなのですね。
加藤:加藤家は山の方にあったので、全員無事でしたし、津波の被害もありませんでした。
太田:大学入学まで、山形県に?
加藤:はい、そうです。大学受験をして、神奈川県の大学に通うことになるまで、ずっと山形でした。
太田:次は、神奈川ですか。
加藤:はい、横浜です。僕は、避難生活もさほど苦にならなかったし、山形に引っ越ししたという感覚でしたので、また引っ越しという感じで、横浜に移りました。田舎から大学に行くために上京、という感覚ですね。(笑)
太田:そこから、大学生活とガソリンスタンドでのバイトが始まったのですね。
加藤:そうですね。(笑)

双葉町民が埼玉県加須市騎西高校へ避難

太田:東日本大震災以降、NPO法人緑のカーテン応援団の活動「仮設住宅×緑のカーテン」プロジェクトで被災地の仮設住宅に行きました。その一つに、双葉町の方々が避難された埼玉県加須市の騎西高校があります。
加藤:埼玉の騎西高校ですね。懐かしいです。
太田:あ、行かれたことがあるのですか。
加藤:はい。実は、小学生の頃から、地元の子ども会で和太鼓をやっていたのですが、避難所の騎西高校で演奏会があり参加したんです。
太田:そうだったんですか。何かイベントがあったのかな。
加藤:はい、夏祭りのような感じだったと思います。騎西高校には、同級生が避難していて「またみんなで太鼓を叩こう!」と呼びかけ合って、僕も参加しました。
太田:うわ~。地元の子ども会で和太鼓をやっていた子どもたちが、震災でバラバラに避難する中、また集まって太鼓を叩こうと呼びかけ合うなんて、何て素敵な出来事だろうか。涙が出そうですよ。きっと大人たちも、子どもたちの叩く太鼓に勇気づけられたでしょうね。震災直後ですよね。
加藤:2011年の夏でした。忘れられない思い出です。
太田:良い思い出ですね。素敵です。

太田:その時に、校舎に緑のカーテンはありましたか。
加藤:ありましたね!ゴーヤーの緑のカーテン。はっきり記憶にあります。
太田:嬉しいです。2011年5月、町民の方々とボランティアのみなさんと一緒に作った緑のカーテンです。翌年は、私も参加しました。屋上から大きなネットを張る作業をしたのを覚えています。

元双葉町役場埼玉支所保健師・栗田富美恵さん撮影

震災は大学で建築を学ぶきっかけに

太田:建築に興味を持ったのはいつからなのですか。
加藤:小さいころ、大工になりたいと思っていました。大工さんが家を建てているのを見て、かっこいいと思ったんです。小さい町で、子どもの僕が身近に見た光景です。
太田:加藤少年は、大工さんに憧れたのですね。
加藤:そうです。あの震災がなく、双葉町にいたとしたら、大学に進んで建築を学ぼうとは思わなかったと思います。
太田:大学進学は、震災がきっかけになったということですね。
加藤:もっと建築を学びたいと思い、大学に行こうと決意できたのだと思います。勉強した以上は、双葉町のために何かしたいという想いがあります。
太田:地元、福島への想いですね。
加藤:いよいよ双葉町も令和4年から帰還が始まりました。現在、双葉駅の西側に復興住宅が建設されています。帰還第一弾はそこへ入るのだと思います。5年後か10年後なのか、今後いつなのかはわかりませんが、町に帰ってくる人がいたら、自分も建築で関わりたいという想いがあります。
太田:加藤くんの福島への想い、よくわかりました。震災のお話も聞かせていただき、ありがとうございました。
加藤:ちょっと偉そうなこと言っちゃって恥ずかしいですが、はい、良かったです。ありがとうございました。
太田:全然そんな風に感じません。ぜひこれからもがんばってください。
加藤:はい。緑のカーテン応援団の活動にも、いつか機会があれば参加してみたいです。
太田:ぜひ、お願いします。災害は起きてほしくありませんが、なくなることはないと思います。それに、近年特に大きな災害が日本中で起きていますよね。万が一、まさかのその時は、力を貸してください。
加藤:はい。僕たちが応援していただいたので、次は僕たちがご恩返しさせていただきます。

就活中の後輩へ

 

太田:では、最後に、これから就職活動をする学生のみなさんも、加藤くんがそうであったように、このブログを読んでいただける機会があると思います。そこで、一足先に就職活動を終えた先輩からの一言として、何か学生のみなさんに伝えていただける言葉はありますか。

加藤:僕は、就職活動を始めて、リブランに出会い、入社してまだ2か月です。入社してから「リブランが面白い」と思うことが、いくつかあります。実際に建築の設計ができないのは残念ですが、それ以上に幅広く社会を知る機会があると感じています。配属になった建築技術部では、億単位の大規模な物件に携わることができる点など、緊張感もある中、それが醍醐味でもあります。「知の貯金箱」や「自己申告研修制度」、「社内勉強会」や「防音研究室」など、僕たち社員の成長を促す機会が多いと感じます。一個人を尊重してくれる環境が、この会社にはあります。
就職は、人生の通過点でしかないと思いました。人生の選択はいつでも変えられると思います。それと、自分の直感を信じて活動するのも大切ではないかと思います。

太田:最後に学生さんたちへ贈る言葉までいただき、今日はありがとうございました。
加藤:いえいえ、僕もこれからです。ただ、思ったことは素直にお伝えすることができました。ありがとうございました。

インタビューを終えて

みなさま、拙い文章でしたが、ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

前編、後編にわかれて、新入社員(新卒)へのインタビューをお伝えいたしましたが、取材を終えて、とても爽やかな青年だったと感じました。
中学1年生の終わりに東日本大震災の影響を受け、避難生活が始まりました。避難という経験がない私は、とても苦労があったのだろうと想像してしまいますが、本人の話を聞くと、なんともたくましく、さほど気にかけていないのかと思ってしまうような感じを受けました。しかし、話を聞くにつれ、故郷福島、双葉町への熱い想いを感じ、さらに東日本大震災発生から、福島第一原発の爆発事故の直前直後を淡々と語る言葉には、思わず聞き入ってしまいました。

部署は違いますが、今後も仕事仲間として、また緑のカーテンのボランティア活動の機会があれば、その同志として、公私ともに仲良くお付き合いさせていただきたいと思います。

就活中の学生のみなさま、リブランのことが気になりましたら、遠慮なくご連絡ください。
また、いつもリブランを応援してくださっているみなさま、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
老若男女、リブラン社員は、がんばります。

ありがとうございました。
(総務部 太田)