相談役の社外活動 女川町復興支援

report2022.02.28

東日本大震災発生~被災地情報収集

2011年3月11日14時46分、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。

地震の規模はマグニチュード9.0、最大震度7を観測した。

当社がある板橋区大山町でも震度5強の揺れが発生し、周囲を見渡すとビルが大きく揺れていた。

相談役の鈴木靜雄は、震災の様子をニュースなど見て、居ても立っても居られなくなり、多くの知り合いに情報収集のため連絡した。

「被害が大きい被災地に支援をしたいのだが、広域過ぎてどこを支援していいいのか分からない。板橋区とつながりがある又はあった被災地はないか調べて欲しい。」

そんな中、板橋区議会議員(当時)の松島道昌さんより連絡が入った。1998年12月~2006年10月の期間、宮城県女川町のお母様やお父様方が板橋区の小学校に見えて、女川の名産品であるサンマ焼きを一緒に行ったり、魚食文化を教えてもらったり交流を図っていたとのこと。

ウーマンズフォーラム魚資料掲載

女川町の支援活動を決定!!

当時の様子を 調べてみると、板橋区からの御礼は残念ながらほとんどされていなかった。

「過去の恩返しを兼ねて宮城県女川町の復興支援をしよう!」
「被災があった今行わなくて、いつやるんだ!」

その思いに動かされるように、板橋区を中心とした有志が集まり「女川町復興支援ネットワーク」を立ち上げ、相談役が会長をお引き受けしました。

現地入り

現地の方々が望まれる支援とは何なのか? 先ずは、須田善明女川町長へ表敬訪問した。

「子どもたちに夢を失って欲しくない」という想いを胸に、幾度となく足を運び、主要関係者との打合せを重ね、女川町のみなさまと一緒に町の再生計画に参画した。

須田町長との打合せ

主要関係者との打ち合わせ

子どもたちとジオラマにて町の再生計画

7万匹のさんま!!!!!

当時、放射能を含む瓦礫問題が復興の妨げとなっており、どこの自治体も瓦礫の受け入れが困難だった。

そんな中、東京都の石原都知事(当時)が女川町の瓦礫7万トンを受け入れることを決め、その報道を見た女川町のみなさまから女川復興支援ネットワークに連絡が入った。

「東京都民に、是非、御礼をさせて欲しい」

その御礼とは、瓦礫「7万t」の受け入れに対して、日本でも有数の水揚げ量を誇る女川町の秋刀魚「7万匹」をお届けしたい、というとてつもない話だった。

「7万匹!!!!!」

目黒のさんま祭り~おながわ秋刀魚収獲祭in日比谷

女川町民の気持ちに何としても応えたい、その一心で動いていた中、毎年恒例となっている「東京目黒のさんま祭り」に、そのノウハウを学ぶことができれば、もしかしたら実現できるのではないかという話が持ち上がり、急遽参加させていただいた。

目黒のさんま祭りでは、約5千匹が振舞われていた。対して女川町からの7万匹は、どう考えてもスケールが違いすぎて現実的ではなかった。

しかし、諦めるわけにはいかないと奮い立ち、東京都公園協会など、様々な交渉に奮闘した結果、遂に一本の希望の道が拓けた。

その年、全国都市緑化フェアの東京都開催が決まっていた。

「第29回全国都市緑化フェアTOKYO」の都内3会場の一つである日比谷公園会場に「おながわ秋刀魚収獲祭in日比谷」として参加する了承を得ることができたのである。

大都会のオアシスとして壮大な広さ持つ日比谷公園であれば、と非現実的な話は一気に現実化し、「これで女川町民の想いに応えることができる!」という歓喜とともに、2012年10月20日開催を決定した。

同時に、支援金を集めるチャンスと奮い立ったが、女川町民のリーダーである女川魚市場買受人協同組合の石森洋悦副理事長から「誰も助けてくれない中を東京都民が助けてくれた感謝へのお礼だから1円もお金をもらわないで欲しい」と釘をさされ、申し訳ないという気持ちと共に、何としてもこのイベントを成功に導こうと改めて一致団結した。

ボランティアスタッフ1300名

日比谷公園では、焼き秋刀魚10000匹以上、女川汁(つみれ汁)10000杯以上、生秋刀魚10匹入り3000パックを無料で配布し、同日、板橋区のハッピーロード商店街でも生秋刀魚10匹入り1000パックをお配りした。

当日のボランティアスタッフを募集したところ、女川町民の力になれるのであればと、ライオンズクラブのメンバーをはじめとする予想をはるかに超える1300名の方々が集結した。リブランからも社長はじめ、多くの社員が駆け付けた。

実行委員長をお引き受けした相談役の鈴木靜雄は、当日会場に足を運んだ人々の前でのご挨拶で「国民と被災者間の当初の絆もなくなってきている。もう1回、東京のど真ん中で火をつけて、それを日本中に拡大していくというのがぼくらの役割だと思っています。」と訴えた。

その力強い声に「被災から1年半あまりがたったが、被災地から心が離れ風化してはならない」と、都民のみなさまが改めて感じる機会になったのではないかと感じた。

後の報道で知ったその日の来場者数21万人は、日比谷公園始まって以来という、とてつもない数字だった。

 

2012.10.28 Sunday世界日報掲載記事

映像や歌を通した支援活動

同じ悲劇が繰り返されないために、そして、映像として残して後世に伝えていくためにと、2本の映画「サンマとカタール 女川つながる人々」「一陽来復」の製作に関わり、エクゼクティブプロデューサー・スーパーバイザーをお引き受けした。

また、被災地に送られた鎮魂歌「大地の子」(祈り)の楽曲を通した音楽イベントも同様に開催するなど支援活動を継続している。

映画「サンマとカタール 女川つながる人々」

映画「一陽来復」

コンサート「世界へ架ける祈りの歌」

心打たれた一言~私たちにできること

相談役秘書の私も「おながわ秋刀魚収獲祭in日比谷」の実行委員会メンバーの一人として参加させていただきましたが、何としてもこのイベントを成功させたいという一心で、大勢のボランティアメンバーと心を繋げ、奮闘したことを思い出します。

復興も目処が立っていく中で、女川の主要関係者が東京にお見えになった時の言葉が印象深く、今でも鮮明に覚えています。

「今の私は幸せです。ようやく日常に近い生活ができるようになってきた。失ったものは大きいけれど、当たり前だったように日常を迎えられることが何よりもうれしい」。

イベントを成功させるために同志として協力し合った当時の女川町のみなさまは、東京から地元に帰れば否応なく現実と向き合わなければならなかった。

復興に向け、これまで長く大変な日々を乗り越えてきた歩みを感じ、胸が熱くなり涙がこぼれました。

女川復興支援ネットワークの活動を通して「心を寄せる仲間が板橋にいる」「一緒に困難を乗り越えていこう」という相談役の想いは、きっと女川町の方々には届いていたのだと思います。

今、あれから10年が経ちましたが、穏やかな生活を過ごされることを願いつつ、今後も相談役、鈴木静雄は支援を継続してまいります。

 

今回、映画製作における投稿はボリュームの関係上、簡単なご紹介になってしまいましたが、そこには数々のドラマがありました。
そちらは「映画編」として別途投稿させていただきますので、よろしくお願いいたします。

総務部:相談役秘書 玉広投稿